【10.09.10】インタビュー  阪井 芳貴さん ウチナーンチュとヤマトゥンチュとで 基地問題の解決を!!

ウチナーンチュとヤマトゥンチュとで 基地問題の解決を!!

 
 名古屋市立大学大学院人間文化研究科教授の阪井芳貴さん、米軍ヘリ墜落の沖縄国際大学に国内留学。その間に沖縄有人島40のうち35の島をめぐる。島の暮らしを見てきた経験をもとに、ウチナーンチュへの期待、沖縄への思いを語っていただきました。

阪井 芳貴さん

1957年東京生まれ。名古屋市立大学大学院教授。沖縄県美ら島沖縄大使、沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員。

離島でカルチャーショック

 私は、平安文学、源氏物語などの研究を一生通じての仕事にと考えていました。 
私の先生は、柳田国男とともに日本の民俗学を立ち上げた折口信夫の晩年の弟子でした。折口は、90年前に、民俗生活に日本の原風景が残っている沖縄に行き、研究、日本の民俗学のレベルアップに貢献するのです。

 大学院当時に、折口が歩いた跡をたどるチームに入れさせられ、81年8月に、沖縄本島北西に浮かぶ歴史的に由緒ある離島にいきました。日本にまだこんな生活をしているひとがいるのかとカルチャーショックをうけ、それが沖縄と関わりを持つきっかけとなりました。

沖縄県民は楽園の住人ではない

 1990年に、国内留学で半年間、宜野湾市に住み、沖縄国際大学と琉球大学に通いました。沖縄の有人島は40くらいありますが、そのうちの35の島をめぐり、島の暮らしを見ることに努めてきました。

 同時に、普天間飛行場の横に住みましたので、基地問題を身体で感じざるを得なかったのです。ヤマトゥンチュにとっての沖縄は「地上の楽園」、「癒しの島」というイメージです。でも、沖縄県民は、楽園の住人ではないのです。その意識の差に違和感を覚えいろんな機会で、沖縄の人たちの暮らしや思いを伝えたい、沖縄から恵みをもらった者として基地問題、沖縄戦を若い人たちに伝えることが自分のポジションだと思うようになりました。

 1990年の湾岸戦争の時には、即座に米軍トラックなどの行き来が激しく、飛行機訓練が多くなりました。臨戦態勢が手に取るようにわかるわけです。
 中東は遠い国のように思うのですが、沖縄ではダイレクトに結びついていることがはっきりわかりました。沖縄は最前線基地と同じだと。何十年前と変わらずにずっとそのような状態であることを目で見、耳に聞こえてくることで実感しました。ある意味、加害の側に常に立たされていることがわかりました。

米軍ヘリ墜落に憤り

 湾岸戦争の時は、米軍の戦車が堂々と国道を走っていました。沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した時、プロペラなどが落ちてきた集落は、私の子どもがよく遊びにいっていた場所でした。あの事件が起きたときは我が事として、驚き、憤りました。

 事件の2日前まで宜野湾にいたのですが、ちょうどお盆で家内の実家で、事件を知りました。よく知っている場所が現場で、私自身や家族がそこにいた可能性もあるわけです。恐れていたことが起こったと感じました。

 航空機の旋回点の真下が私の住んでいるアパートでしたので、パイロットの顔がはっきり分かる、手を伸ばせば届くのではないかと思うくらいでした。夜中の3時4時でもヘリや輸送機が飛び、幼稚園に通っていた子どもがベランダに出て「うるさい」と叫んでいるんです。子ども心にも耐えられないものだということだったのです。圧迫感というか、本当に怖いですね

生活の拠点が滑走路に

 基地問題を、沖縄戦と結び付けて捉えないといけないと思っていています。沖縄戦はまだ終わっていないという人もいますが、結局、今の米軍基地のほとんどは、旧日本軍が作ったものをさらに拡張して米軍が利用しています。

 宜野湾市の普天間飛行場にしても沖縄戦のさなかに建設されたものです。いま滑走路になっているところは、昔は、街道で綺麗な松並木があり、普天間宮というお宮に通じていました。琉球王国時代から沖縄の人たちにとって大事な信仰の場所のひとつでした。1944年の段階で、米軍が航空写真を撮っているのですが、たいへんきれいな田園地帯です。点々と集落があり、学校、郵便局、生活の情報の拠点がその街道沿いにあったのです。まさに、生活空間だったところです。その事を知ってほしいですね。

 沖縄の人たちが望んでいるのはもちろん基地の撤去ですが、先祖が耕してきた畑、田んぼ、家、みんなで共同して暮らしてきた集落を返してほしいというのが根幹にあるのです。沖縄の人たちは先祖を大事にし、戦争の最中、肌身はなさず、もって逃げたのがトートーメー(先祖の位牌)です。20から40の木の札に生前の名前が書いてあり、とても大事にしています。墓の前での宴会も先祖と時を過ごす感覚ですね。先祖のおかげという気持ちで毎日暮らしている人たちです。こうしたところから共感することが大切です。

外圧によって生活が変えられてきた不幸な歴史

 琉球・沖縄の歴史は4つの大きな区切りがあります。
 そのひとつが、1609年、いまから401年前、江戸開府間もないころですが、薩摩藩が琉球王国に侵攻し、王様を江戸まで拉致する大事件が起こるのですが、それ以降、琉球王国は薩摩藩の支配を受けるのです。

 中国に礼を尽くし貢物を持っていくと中国からそれぞれの国の独立を保護してくれるという冊封体制のなかにあり、中でも琉球王国は一番優遇されてきたのです。それにより経済的にも潤い、琉球王国は成り立っていました。そこに薩摩がやってきて、一方的に搾取される立場になっていきました。

 2つ目は1879年、131年前の「琉球処分」です。琉球王国の解体とともに沖縄県の設置が処分という形で行われました。行政処分という非常に不幸な近代のはじまりです。

 3つ目の区切りが1945年の沖縄戦です。

 4つ目が1972年、再び沖縄県として日本への復帰ですが、この4つに共通していることは、沖縄の人たちの主体的なかかわりはほとんどなく、外圧・軍事力によって生活が、変えられてきたことです。400年間の時代の歴史があり、集団自決に追い込まれたことも含めてヤマトゥンチュに信頼感がもてないという根深いものがあるんです。それは、本当に不幸なことです。

 まず、われわれヤマトの先祖たちが沖縄に対して行ってきたことや、直接行わないにしてもどのように見てきたのか、その立場を振り返り、沖縄の人たちの立場を理解することが重要です。本質的な歴史を学ぶことも大事だし、歴史記述に記されない島の暮らし、美意識も理解しその上で、基地問題にかかわっていかないといけないのではないかという気がします。

非武装の琉球王国に学ぶ

 琉球王国の姿勢は、非武装で世界中でもめずらしいですね。小さい島ですが広い範囲に出かけていって交流、対等に貿易をしていくためには、武器を持っていったら、話にならないわけです。

 互いの理解、コミュニケーションを王国時代のひとはとても、うまくやっていたので、私たちは、そこから学ぶことはとても多いと思います。

 よっぴいて飲みながらゆんたくする(お話しする)。ひどい戦争体験をして、今もその延長に基地問題をかかえていてもなお、明るく、人が集まれば三線を弾いて夜中飲み明かす明るさ、したたかさがあります。その根本にあるのは自然の中で生かされ、人間もその自然の一部だというように暮らしているという意識があるのだろうと思います。
 ウチナーンチュもヤマトゥンチュも共感しあって、基地問題を解決していくことが大事ではないでしょうか。

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