【17.01.10】芥川賞作家 諏訪哲史さん 全体主義に迎合するわけにはいかない 寛容さとたえず検証し省みる力を

芥川賞作家 諏訪 哲史さん

 
「いま沈黙していたら、あのとき筆で生きていた諏訪哲史はひとことも言わなかった、迎合したと後世の人から言われてしまう。そんな恥をかくわけにはいかない」と芥川賞作家の諏訪哲史さん。
 お話をどうしても聞きたくて大学の研究室を訪ねました。
(聞き手 岩中美保子・撮影 植村好清)

芥川賞作家

諏訪 哲史さん

1969年名古屋市生まれ。作家、随筆家。東海学園大学教授。「アサッテの人」で芥川龍之介賞・群像新人文学賞受賞(2007年)。著書に『りすん』『ロンバルディア遠景』。

作家になった動機

子供のころから本が好きでしたが、作家になる気はありませんでした。尊敬する大学の恩師の種村季弘先生に「認めてもらいたい」と強く思い、就職後も学び続けていました。28才で6年間勤めていた名鉄を退職し、先生に向けて初めて書いた小説が「アサッテの人」です。後年、それが賞をいただいたので作家になってしまったといったほうがいいかもしれません。

寛容な時代

今の時代は、やはり「不寛容な時代」といえるのではないでしょうか。寛容さが失われて、人々の不安や鬱憤を為政者に利用されている。独裁が容易に行われやすい時代であると思います。
 世界各国でもトランプ現象やフランスの極右政党の躍進など、寛容さのない排外主義がおこっています。しかし、日本と比べると欧州のほうがまだ寛容さがあると思います。
 日本は、今世紀にはいってからというもの弱者と強者がはっきり分かれ、内に引きこもっていた人間が窮鼠猫をかむというように示威的行動に出始めた。それはレイシズム(差別主義)やヘイトのような形です。
 どうして不寛容か、それは匿名という文化、ネットに巣食う病で、大衆が憂さを晴らしたいという快楽で屈折しているからです。ネットをはけ口にする我々国民が、小利口な政権に掃除機で票をやすやすと吸い取られる国になってしまいました。
 昔の政治家はどこか不器用だったので、国民は見抜けた。小泉政権あたりからメディアを使ったコントロールが巧みになってきた。多くの人々がそれを見抜けなくなって、その果てに安倍政権がある。これまでのノウハウを蓄積したブレーンたちがネットなどでありとあらゆることを法の枠内で仕掛けてくるようになった。あれほど選挙で圧勝されて、「変だ」ということを大勢の人が気づかない。
 僕が若いころ、どうも変だなと思った時には、国民がすぐストップをかけられた。いまは選挙で勝つためにヘイトの力が利用されている。哲学ではルサンチマンといって、大衆の中に潜在している鬱憤や悪意、ねたみ、恨みの圧力です。与党はその向きを変えるだけで、負の感情を煽って自らの票にすることが出来るのです。      

どうも変だの自覚

毎日夫人の11月コラム「うたかたの日々」で「『どうも変だ』の自覚」を書きました。
 抜粋すると、現代社会は、宮沢賢治の「注文の多い料理店」にたとえるなら、「狩人たちがどうも変だとは思いつつ耳にまでクリームを塗らされている箇所だ。その愚かさを自覚する人々の理性だけが未来の戦争史を破棄できる。いま扉の向こうで、戦争が口を開けて僕らを待っている」と。
 おそらくこの悪政にもいずれ審判は下ります。歴史を振り返った時に、間違っていたのは彼らだとわかると思います。がしかし、「焼け野原になって」からではおそい。
 憲法に家族の条文が書かれることによって、身内は助け合うもの、町内の助け合い、市の、県の、日本のと拡大し、なぜかここで境界の塀ができて日本のほうが韓国、中国より大事だ、愛すべき国だ、と気づけばそういう排外的な理論になっていく。それは愛国ではありません。愛国の名を利用した、憎悪を煽ったシビリアン・コントロールです。そうして軍国主義になっていく。

本で歴史、世界の広さを学んでほしい

 子供たちには昔の人が書いたものをたくさん読んでほしいです。今見える世界はとても狭い世界です。世界の広さを子どもたちに知ってもらわないといけない。「この世界は僕とママとパパだ」という観念だけを強めるから「家族だけを守る」となる。守るためには日の丸を掲げて、家族でない他国人を殺して帰ってくる。すると殺人者が英雄になれるのです。恐ろしいことです。自分たちの国の外にも家族たちがいて、自分たちと全く違った考えを持ちながら、でも人として生きている。 世界の広さや歴史の長さを学んで、理解し合う力、忍耐して他者を許す力を身につけてほしい。
 ひと昔前の民意は信頼するに値するものでしたが、今の民意はコントロールされた結果のいわば「流行」ですから眉唾ものです。かといって単に為政者を悪者にしておけばすむという時代でもなくなってきている。
 もし戦争が起こった時、最も弾劾されるべきはわれわれ国民だとおもいます。為政者から愛国心をくすぐられて、いい気になって人を殺した(またはそれに反対しなかった)とすれば、僕ら自身が全員戦犯ですね。
 自分を批判できる能力をもつこと、たえず自論を検証して省みる力が必要です。社会の空気を読むのではなく、自分個人の考えがまっとうなのかどうかという疑いを持たないといけない。
 世論というのはとても幼く、単純です。現政府に反対する者はなんでもかんでも左翼だなど、考え方が違う人を「敵」とレッテル貼りする排外主義が広がっている。国民が考えないからです。僕はこれ以上に人々が憎しみ合うことを危惧しています

作家として、今

 今の惨憺たる状況をみると、日本はまた愚かな轍を踏む予感がします。作家としては本来政治ではない文学の場で勝負しないといけないと思いますが、ここで沈黙していてはいけないという気持ちもある。
 僕もいつか死んで、死んだ作家として将来の人間から見られるわけですね。死んだ作家はもう身動きができないのです。書いたことを一字一句変えられない。生きている時だけ書き換えたり撤回したりすることが出来る。つまり書ける時は今だけなんです。
 その今、欺瞞を書いていてはいけない。自分の信念にない欺瞞を書いたら、数十年後に必ず見抜かれる。歴史に残っている作家は、読解力のある読者によってふるいにかけられ、信じるに足るものだけが長く残る本になります。
 どんなに間違いだと言われようが全体主義に迎合するわけにはいかない。あの作家は本気で生きていた、それだけが伝わればいい。そう思います。

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