定形 衛さん
1953年うまれ。現在、名古屋経済大学特任教授。専門は国際政治史。著書に『非同盟外交とユーゴスラヴィアの終焉』、編著書『国際関係論のパラダイム』など。
三位一体の「平和・民主・革新」の大切さ
毎月送られてくる「革新・愛知の会」機関紙を手に取るとき、題字にならんで掲げられている、「平和・民主・革新」の三つの語が印象深く目にとまります。
これら三つはそれぞれが別々に追求されるものではなく、いわば三位一体のものとして同時に実現されるものであるとの思いを強くもっています。戦場で命の争奪をしながら民主主義を実現することはできず、また自由と民主主義なしに平和を享受することはできません。
カナダの外交官で歴史家であったH・ノーマンは、自由は空気のように不変で確実なものではなく、「意識的にかちとらなければならないもの、熱心に守らなければならないものである」と述べています。そして自由のための戦いは、冷淡な態度や無関心と戦うことだと言っています。まさに平和も民主主義も意識的にかちとり、守りぬいていかなければならないものです。 戦後日本は平和と民主主義建設の道を決意し、ときにそれに逆行するコース、戦争への道を身近に引き寄せた時もありました。しかし、こうした策動を必死に食い止め、日々の運動を新たに築き現状を改革してきたのが「革新懇」の運動でした。「平和・民主・革新」は鼎のように三つで一つ、そのずっしりとした安定感と存在感が期待されているのです。
「アベ政治もうたくさんだ」の運動へ
日本の現状をみるに、2012年以降の第二次安倍政権の内外政策は、「逆コース」以上の反動ぶりで、平和と民主主義を踏みにじり、国民による革新の運動を無視した理念どころか理屈もない政治に終始しています。
9条改憲論議、日米同盟の強化、集団的自衛権の決議、国内では閣僚・議員の不祥事や贈収賄事件、「桜を見る会」や東京高検検事長の人事をめぐって「すり替え」、「なし崩し」の政治が跋扈するなか、「アベ政治を許さない」のシュプレッヒコールが街頭デモで轟き、全国規模で革新懇は運動の前面に立ってきました。
しかし、最近、私はもはや「アベ政治を許さない」に加え、「アベ政治、もうたくさんだ」のスローガンの方がインパクトが強いのではと考えています。「もうたくさんだ」は2011年の「アラブの春」で若者が長期独裁政権に投げつけたものでした。アラビア語のキファーヤKifaya(もう十分だ)はエジプトのムバラク政権の打倒を実現しました。それ以前、セルビアではミロシェヴィッチ強権政治打倒に際しドスタDosta(もうたくさん)の標語がデモを埋めました。
「アベ政治もうたくさんだ」は国民の怒りや失望にとどまらず、国民主権を掲げる政治がこれでは「情けない」との私たちの政治意識から発するものであり、主権者の名においてこの政権は変えなければならない、自分たちにふさわしくない政権だという、責任意識の表明でもあると思うのです。
「歴史との対話」と「政治の世界」について考える
私は現在勤めている大学で、全学共通の授業科目「歴史との対話」と「政治の世界」を担当しています。思うに、日本人は歴史に向き合い、対話することが苦手な国民かもしれません。 歴史は「もうすんだ出来事」であり既成事実として、いまさら対話しても「仕方のない過去」という捉え方が強いようです。「歴史は流れる」もので、時代時代で民衆も加わってみんなで「作り上げる歴史」という意識が稀薄です。歴史は変えようのないもの、歴史は指導者から与えられるものという認識では、歴史の教訓を見つけ出していくことは難しいと思うのです。
しかし、私たちは現代がどのような歴史をふまえてどこへ向かっていく時代なのかという方向性を明確にとらえ、さらにその方向を導いている時代の勢い、言いかえればどのような力と力がぶつかり合っているのかをつかむことが大切です。
こうした歴史のもとで政治も展開しているのです。
私たちは、政治は権謀術数と権力闘争が暗躍する世界であり、私たちの与り知らぬところで政治が進んでいくと考えがちです。
しかし、私たちの存在自体が100パーセント歴史的であり政治的であると思うのです。私たちは、歴史の現段階のなかで、政治的現実を生きていくしか方法はありません。
「私たちは自分たちに相応しい政治しか持つことができない」と学生時代に習ったことが思い出されます。 主権者である国民が権力と緊張関係に立って、時代の政治的決断と格闘し、よりよい時代へと未来にむけて切り拓いていくとき、また社会の仕組みがそのように作られているのだと自覚するとき、歴史と政治に向き合う「やる気」、「元気」、「張り合い」がうまれてくることは間違いありません。
この活力をうみだすことができれば、もっともっといい日本、信頼される日本になると思います。