天皇は、確かに、日本国憲法を「尊重し擁護する義務」を負う(99条)。しかしそれは、「尊重擁護」の「意思表明の義務」ではない。
天皇・皇室をめぐる動きが多い一年だった。天皇・皇后も「思いやり満載」のメッセージを発した――10月の誕生日の際の皇后による人権への想い、11月の天皇夫妻の「国民を慮る」葬送方針、12月の天皇誕生日の現行憲法への想い…等々。
メディアが報じるのは、秘密法、集団的自衛権の憲法解釈、倒錯した首相の憲法観と、「尊重擁護」とは似ても似つかぬ現政権が企てる日本国憲法への「謀反」である。今や天皇制の是非はおろか、天皇・皇族のメッセージを「問題視」する風潮すら薄い(2014年2月14日付朝日新聞の「記者有論」は正反対の文脈での記事である)。憲法学界においてさえ、天皇制は「問題」であることをやめたかのようだ。しかし、憲法研究者の端くれのくせに、私の心の底では、目の前の「壊憲」現象への批判以上に、「国民」や「憲法」を想いやる天皇・皇族のメッセージへの“違和感”がくすぶる。
社会が、あることがらを問題視しないことは、それが「問題」ではないことを意味しない。「特別な身分」が「国民」にどれほど想いを馳せようと、憲法の歴史は、両者が本質的に相容れないことを教える。ならば、やはりこの状況はおかしい。
迂遠なようでも、「天皇制は、まずは憲法の問題である」ことを伝える言葉を紡ぎ続けようと思う。