革新懇の活動−投稿コーナー

【08.02.07】沢田昭二(名古屋大学名誉教授・物理学、被爆者)イタリア5都市で原爆展と講演の旅

安斎育郎さんらとともに

2007年10月23日から11月3日まで、立命館大学国際平和ミュージアム館長の安斎育郎さん、平和学が専門で被爆二世の山根和代さんとともに、イタリアで広島・長崎原爆展と講演の旅をしてきました。

三重県出身ミラノ在住の横田早苗さんが中心になって準備し、イタリア在住の多くの日本人とイタリア人の平和活動家の協力を得て実現したものです。イタリアの政府、自治体、団体に支援を働きかけ、三重県の原水協と被爆者の会、日本被団協、広島市原爆資料館、立命館大学平和ミュージアムなどの後援、JALイタリア支店などの援助を受けました。



《行政機関も協力》

今回の企画は5市でおこなわれ、ローマでは10月25日から二週間にわたる原爆展とシンポジウムが開催されました。会場を提供したイタリア内務省直属の消防研究所・高等専門学校とローマ第11行政区の共催でした。

原爆展にはローマ大学東洋学部の学生もボランティアとして参加し、大学内にポスターを張るなど宣伝もしてくれました。原爆展にかかわって人生観が変わった、という学生もいました。
 26日にはシンポジウム「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」が開かれ、高校生を含む300人が参加しました。司会は『1つの爆弾10の人生』の著者で科学ジャーナリストのステファニア・マウリチさん。この本には私も登場しており、邦訳にもあたりました。

《火の中に母を残して》

私は自分の被爆体験と、広島・長崎の惨状について報告しました。

広島に原爆が投下されたとき、私は13歳の中学生でした。その日は病気で動員先の工場を休み、爆心地から1.4kmの自宅で眠っていました。ピカもドンも知らず、気がついたときはつぶれた家の下敷きになっており、必死にもがいて抜け出しました。

小さく母の声が聞こえました。壊れた屋根、壁土、柱や梁が幾重にも重なる下で、動けなくなっていたのです。なんとか柱や壁を動かそうとしましたが、私の力ではどうにもできません。気がつくと火が迫ってきました。

叫ぶ私に母は「逃げなさい」と繰り返し、「生き残って、勉強して立派な人間になりなさい」といいました。「すぐ逃げなさい!」「お母さん、ごめんなさい!」――。火事嵐のなか、最後の会話になりました。

今でも母を思い出すたびに、あのとき何とかできなかったろうか、という思いにとらわれます。

「母の言葉に応えるためにも、被爆者として、物理学者として、核兵器廃絶のためにとりくむ二重の責任を持っている」と私の思いを伝え、さらに原爆被害の特徴、いまも被爆者を苦しめつづけていることを話ました。

《被爆二世の不安》

山根さんは、父親が遠距離・入市・介護の3重の被曝によって急性放射線症状を発症し、生死の境をさまよったこと、被爆2世としての自身の不安を話しました。

最後に次のような一節で始まる英語詩「愛しい我が息子へ」を朗読し、その思いを伝えました。

 あなたが生まれたとき、

 私がまず何をしたか知ってる?

 それはね、あなたの指を数えたことなの。

 どうしてそうしたのか、知ってる?

 それはね、あなたのおじいちゃんが一九四五年に広島で被爆したからなの

《核兵器廃絶しかない》

安斎さんは被爆の実相、核軍拡競争の歴史、核保有国が考えた「民間核防衛」の滑稽さ、偶発的な核戦争の危険、核兵器廃絶をめぐる動きなど話しました。

さらに広島市の国民保護計画策定にあたり、安斎さんも委員を務めた「核攻撃被害想定専門部会」の結論を紹介しました。核兵器が使われたら、消防や医療で最善を尽くしても、何十万という死傷者が出ることは避けられない、核兵器の廃絶こそが国民保護の最善の道である―─。

シンポジウムでは私たちの話の前に、内務省消防庁の技術者たちが、原子力利用にまつわる危険から人びとを守るイタリアの技術、救援活動に関する報告をおこないました。

シンポジウムのあと、この人たちが、今日の報告を聞いて、放射線被害をなくすためには核兵器廃絶が基本だということがよくわかった、と述べていたのが印象的でした。  

《平和をねがう人びと》

ローマでの講演につづき、イタリア北部を巡回しました。
28日、ミラノから約100km東のマネルビオ市を訪問。当地に住む西村重雄さんが、市役所での原爆展や講演会を準備し、さらに北部巡回のミニバスの運転まで引き受けてくれました。

夜8時半からの講演会では、日曜日にもかかわらず、平和を願う人びとが夜遅くまで熱心に話しを聞いてくれました。

29日はさらに約200km東のポルデノーネ市に。市の政治社会部長においしいイタリア料理で接待していただき、セミナーの会場は市職員が設営。市教育委員会がセミナーを平和教育の一環に位置づけたといことで、立派な会場の1階と2階は300人の高校生で満員でした。

3人の報告のあと、質問の時間もたっぷりとられました。原子力発電をどう思うかという質問に安斎さんがていねいに答え、原爆放射線の内部被曝と外部被曝の違い、広島と長崎の原爆被害の違いについては私が答えました。

この街からは19kmの米空軍基地に核兵器が配備されており、毎年そこまで平和行進がおこなわれているそうです。

30日にはミニバスで高速道路を約300km西にもどり、12世紀の古都が残るベルガモ市で講演会。この地域最大のキリスト教系労働組合の主催で、夜8時半から11時まで報告をおこないました。被爆二世、三世への被爆の影響、核兵器廃絶の可能性、原発問題など熱心な質問が相次ぎました。

《ミラノ爆撃63周年》

31日には、ミラノ市爆撃63周年の集会に参加しました。1944年10月22日、イタリアはすでに降伏していましたが、ミラノ市に残ったナチス軍を米軍が爆撃し、イタリアの児童がたくさん殺されました。その63周年集会を私たちの訪問にあわせて延ばしてくれたのです。

70歳代になった爆撃の生き残りの人たちが、自分の体験を詩にして朗読しました。イタリア語はよくわかりませんでしたが、体験者だけに迫力がありました。

この朗読に続いて山根さんが「息子へ」の詩を、ここではイタリア語で朗読し感動をよびました。私の話はミラノ在住の伊藤格さんがイタリア語で通訳。炎が迫る中、母親と別れるところで伊藤さんの声がつまり、一瞬途切れました。集会で合唱した中学生たちも、しんとして聞いてくれました。

安斎さんは、彼が「手品師」であること知った横田さんの勧めで、講演に手品をとりいれてきました。ここでも話の最後に3枚のカードを使ったマジックを実演し、見えているものだけで全体を推測するのは危険なこと、核兵器を使おうとする国の宣伝にごまかされず、事実を見抜き、一緒に核兵器をなくそうと訴えました。

《日本の役割を痛感》

ミラノ市を含むロンバルディア州の国際情報局長が昼食に招待して下さり、ミラノ市などで本格的な原爆展を実現させる可能性について相談しました。今後の発展が楽しみです。
今回の旅は強行軍でしたが、大いに勇気づけられました。長年イタリアで仕事をしてきた横田さんの、広島・長崎のようなことを繰りかえしてならないという思いから出発し、西村さんをはじめイタリアに住む人びとの平和へのねがいをつなぎ、自治体などにも大胆に働きかけ、これだけの企画を成功させました。
イタリアの地域に深く根ざし、平和のために活躍されているのを見て、これこそ日本が世界の中で国際貢献をしていく重要な取り組みだと痛感した旅でした。 (おわり)

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