浜岡原発を直ちに止めよ〔福島原発事故から学ぶパート2〕
4月20日、第75回「栄総行動」(注1)の一環として、阿寺渓谷を愛する下流市民の会(注2)と東濃・下伊那とその下流域を核のゴミから守る連絡会(注3)が中部電力への要請を行ないました。
東日本大地震発生により東京電力福島第一原発であってはならない最悪の原子力災害が起きていますが、この日の要請は、その最悪の災害が、国と電力各社・経済団体が「原発安全神話」を振りまいて推進し続けてきた中で発生した経済優先・安全軽視の結果であることを厳しく指摘し、「浜岡原発の停止、自然エネルギー発電への大幅投資」など5項目について中電に迫る行動でした。
参加者は、●国も東電も安全と説明してきたが、この事態が起きてもまだそう言い切れるのか、●原発はクリーンで環境にやさしくコストも安いと言えるのか、●いま原発を直ちに停止できるのは中電だけだ(中電の電力供給力は浜岡原発がなくても多少の余剰電力を確保できる)。勇気ある決断を!と強く要請しました。
これに対し中電の広報担当者は、◆福島の事故は大地震の中で発生したが浜岡は東海3地震の同時発生を想定しそれに対応できる設計である。◆今回の事故を受け、更に12m超えの防潮壁を建設する(マスコミ各社はこの時すでに「15m」と報道していた)。◆安定した電力供給のために、浜岡原発を止めることは考えていない。――など事態の深刻さが分かっているのか!と、憤りを覚える回答を重ねました。この対応に参加者の追及はヒートアップ。●中電浜岡が「日本一危険な原発」といわれているのはそれが東海地震の想定震源域の真上にあるからだ。●事故が起きてからでは遅いし取り返しがつかない。「即時停止」こそ最も適切かつ常識的な対応だし、それ以外の対応は考えられない。●安全のための対策ではなく安心感(心理的な)を振りまいて原発推進を続ける姿勢こそ正すよう、求めました。
この要請の参加者は28名で、瑞穂区革新懇からも4人が参加しました。
(注)1.栄総行動=「みんなの要求・みんなで解決」を掲げて春と秋の年2回、中区を中心に総行動を続けている実行委員会。今回は名古屋市、中電、中部経済産業局など19の企業・団体へ申し入れ。
2.阿寺渓谷を愛する下流市民の会=90年代に中電が長野県木曽郡王滝村と大桑村に揚水発電所建設を計画したのに反対し、木曽川の水源と下流域住民のおいしい水を守ろうと運動、2003年に計画を断念させた。その後も大桑村阿寺渓谷の清掃と地元との交流を続け、中電の動きを監視している。
3.東濃・下伊那とその下流域を核のゴミから守る連絡会=核の最終処分場として北海道で1か所、岐阜県瑞浪市に1か所、計2か所で「超深地層研究」と称する地層研究がおこなわれている。そのゴミ捨て場に反対する会。
<追記> ▼「4・20栄総行動」
この後、4月28日に中電は点検中の浜岡3号機の再開方針を発表した。が、高校生が呼びかけた市民デモがマスコミの注目も集めて多数の参加で成功したり「浜岡は直ちに止めよ」という声が内外を問わず広がる中で、周知のように5月6日には菅首相が「浜岡の全面停止」を要請する動きとなり、9日になって中電も「防潮壁の構築など安全対策を講じるまでの間(2年程度?)は原発を止める」と表明するに至った。
これもバネにさらに運動と世論を広げ、原発推進政策の抜本的転換を図る必要がある。
被災地復興、浜岡原発の即時停止など訴え<第82回愛知県中央メーデー>
5月1日(日)雨上がりの曇り空の下、第82回愛知県中央メーデーに参加しました。
当日、会場となった白川公園にはそれぞれ工夫を凝らしたプラカード、横断幕、デコレーション、中には原発事故の抗議を含めて放射能汚染を防ぐ防護服を着た参加者もあり、目を引きました。
東日本大震災の後ということで、参加団体の代表や来賓の連帯あいさつの中にも、復興・支援を呼びかける内容が多く見られました。
実行委員長の榑松佐一氏(愛労連議長)も主催者挨拶で水道や清掃など多くの自治体労働者が被災地に駆けつけていること、自らも震災直後に灯油を届けたこと、また今なお10万人を超える人が避難生活を余儀なくされていることなどの実情を報告し、支援を急ごうと訴えました。
集会の後、参加者4,000人が3コースに分かれてデモ行進に移り、正午過ぎに解散となりました。
全体として、東日本大震災による被災地・被災者との連帯、絆を確かめ合い、働く者の雇用と暮らしの安定こそ復旧・復興の要であることを確認し合えたメーデーでした。
事務局長 Oさん
憲法記念日のダグラス・ラミス講演に学ぶ
5月3日の憲法集会――元海兵隊員で現在も沖縄在住のダグラス・ラミスさんは「日本国民はいつまで沖縄に基地負担を押し付けているのか」と大変耳の痛い話をされました。
福島第一原発の事故にからみ「東京新宿駅西口に原発を」という広瀬タカシ氏の話を引き合いに「東京に普天間基地を」と切り出しつつ「沖縄の民意がだいぶん変わってきた」と先の県知事選挙を振り返りました。
沖縄では従来の基地容認派も反対派も「辺野古移設に反対」になった。1人はグアムへ、当選したもう1人は県外移設といったが、これは大和(本土)へということ。グアムを選ばなかったことは尊敬に値する。グアムは米国領でありながら大統領選挙や国会選挙に参加できず、面積も東京23区より小さい。又、今までよくないと批判されてきた「県外移設」が今の沖縄の多数の民意となった背景は真剣に考えなければならない。
よく荷を分かち合うといわれるが、沖縄以外(ヤマト=本土)は荷を持たず「基地をなくす努力をしているからそれまで待ってほしい」といって基地を押し付けられている苦しみを感じていないのではないか。「要石」といっても地理的に沖縄だというのは何の根拠もない。「憲法九条を世界に」ということと「日米安保に頼る=軍事力がないと不安」という考え方は矛盾しているが、本土(ヤマト)はその矛盾に目をつぶっていないか。日本の世論で「九条変えないほうがいい」は過半数だが、安保条約賛成は70%ある。
このように矛盾する両方の考え方が本土で崩れないのは、沖縄が遠いから見えず、都合によって両者を使い分けているからだ。沖縄では安保条約がアジアの平和に貢献していると考える人は7%しかいない。沖縄は60年安保も70年安保時も日本に復帰していなかった。その沖縄の立場からすれば「安保が必要=基地がほしい」と思っているところへ基地を置くのは当然ではないか。
もう1つの角度から言うと沖縄の人たちは「日本の0,6%に過ぎない土地に75%の基地がある」と繰り返し言ってきた。誰に対してか――日本政府、アメリカ政府そして日本国民に向けてだ。反戦平和主義からではない。数字を言うのは「不平等」だからだ。これは戦争反対とは別の話だ。中途半端な言い方で「だから何?」と問われたら、「だから平等にしましょう」とやっと言えるようになったのだ。そして今「県外移設」は沖縄の過半数の民意になった。
「場所がない」は、住民が反対運動を起こし選挙がやりにくくなるということ。「基地はどこにもいらない」というのは、考えとして優れているが実際的には基地を沖縄に押し付け続けることになる。これから何年かかるのか、それを教えなければならない。どういう段取りでやるのか――日米安保を放棄しなければならない。放棄する勢力を作らなければならない。それを待っている間、基地はどこへ置けばいいのか。これは沖縄の人たちに聞くことではない。安保に70%の支持がある大和の問題、アメリカの問題である。沖縄がアメリカを変えるのは難しい。
ラミスさんは、この講演で本土に住む私たちに「安保条約をなくす」という課題を突きつけたわけです。彼は「反戦平和主義からではない」と云いましたが、基地の存在は住民の生存していく条件として相いれないことが多く“平和のうちに生存する権利を有する”と定めた憲法前文に抵触するからではないでしょうか。
これを反戦平和主義と呼ばなくても、「基本的人権が平和の基盤なしに存在しえないことからして、その基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利である」とした2007年4月17日の名古屋高裁判決(イラク派兵差止訴訟)を生かすことの意味を改めて考えさせられた集会でした。
事務局 Yさん