私が参加したわけ
1999年春2月、愛知県知事選挙に長年の市民運動の仲間である影山健さんが立候補した。その応援に参加してほっとしているときに、川島健さんと元岡崎市議の尾藤輝夫氏の2人が私宅に来られて、当時の「トークの会」に入会を誘われ、そのとき参加して早10年余りになる。私としては目立った運動もできずに過ごしたが、岡崎市では色々の行事にできるだけ参加してきたつもりです。憲法を守り、日米安保反対は、社会党員時代からの私の信念で、また脱原発も市民運動の仲間とたたかってまいりました。
特にびっくりしたのは、99年5月23日、乙川河岸で行った日米安保による周辺事態法
(新ガイドライン)反対集会に、名古屋から来られた成瀬昇氏に久しぶりに会ったことです。20年ぶりくらいと思いますが、彼は、私が社会党員時代に共に活動した仲間です。共に懐かしく、昔話しをして、集会とパレードに参加しました。その成瀬氏も今春天国へと旅立っていきました。寂しくなるばかりです。
岡崎の共産党の市議の方と知り合ったのは、それより以前の1976年です。当時の内田岡崎市長による汚職・買収事件が発生して、市議会リコール運動を社会党員である私と共にたたかったのが八田、大久保、尾藤氏の3名の方で、そのときからです。
これは余分のことですが、私の生まれ故郷である徳島県にて私の長男である手塚弘司という者が共産党の県の役員をしているようです。逢う度に、私は入党を勧められていますが、私も当年84歳で、体力に衰えを感じています。今は鉄道線路でいうならば、1000分の13位の下り勾配をゆっくりと下っていくように暮らしています。今後もできるだけ護憲と平和のため、革新懇運動に、また脱原発のたたかいに関わっていけたらと思っている今日この頃です。
代表世話人 手塚文夫
100号に寄せて
革新・岡崎の会が活動を始めて11年がすぎ、ニュースはほぼ毎月発行し、100号を迎えることができました。これは、革新懇運動に岡崎の地で関わってきたみなさんのおかげです。当初から事務局を担当してきた者として関係者のみなさん、読者のみなさんに心からお礼を申し上げます。
結成当初は、民主的な団体の代表のみならず、保守系であった人、旧社会党系であった人など、様々な考え方を持った方々にも加入を働きかけ、革新3目標を支持しながら、緩やかな「申し合わせ」に基づいて活動を始めました。会の名称も「革新」という文言は一般の人にはなじみにくいということもあって、「人間らしくくらしと平和をきづく岡崎トークの会=略称・岡崎トークの会」として活動をスタートしました。
この活動の基本スタンスは現在まで継承され、幅広い市民のみなさんと共に様々な課題に対する運動を続けています。そんな中で、全国革新懇話会が「革新全国の会」に、愛知革新懇話会が「革新・愛知の会」に名称変更したことに伴い、岡崎トークの会も「革新・岡崎の会」に名称変更しました。
とくに平和・憲法問題です。憲法違反の集団的自衛権の行使につながる自衛隊の海外派兵を認める「ガイドライン」を決めるときには、全国で大規模な反対運動が行われました。岡崎でも、岡崎トークの会が中心になり、多くの団体・個人のみなさんととともに、400人を超える集会を開き、たたかってきました。この問題は、その後「PKO」「多国籍軍の後方支援」などの名目で自衛隊の海外派兵を続ける出発となりました。そして、現在の憲法改悪の大きな実績づくりの役割を果たし、平和を脅かす危険な動きはますます強まっています。
また、最近ではみなさんご承知のとおり、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を受け、復興支援と原発ノーの「3.11岡崎集会」の成功に大きな役割を果たしました。
私たちは、これからも時々の課題にあわせ学習を深めながら、くらし・平和・民主主義を守る運動を続け、要求実現と政治革新に向け、さらに活動を強めていきたいと思います。
代表世話人 山田弘