オール福島に連帯して
革新・愛知の会は、5月15日~16日に「原発事故被災地の今を知る」ツアーを行い、16名が参加しました。
このツアーでは、福島県革新懇事務室長の小川英雄さんに全日程を通じて案内をしていただきました。
地元の方々と懇談・交流を深め、あらためて原発事故被災地の人たちの厳しい現状と「オール福島」でたたかっている姿に、原発再稼働を許さないたたかいを連帯して取り組んでいかなければとの思いを強くしたツアーでした。
三年たった今でも3・11の姿そのままに――浪江町
一日目は福島第一原発から20キロ圏内に位置し、避難区域に指定されている浪江町に入りました。現地ガイドは浪江町民で漁業を営んでらっしゃる志賀さんと、元高校教師でらっしゃる新妻さんにしていただきました。
請戸小学校とその周辺
原発から20キロ圏内に入るため許可証を提示して浪江町に。
たまたま消防訓練が行われており、消防車やパトカーもいたが、それ以外では除染車両しか走ってない様子。夕方には浪江町からでる除染車両のため渋滞が起きる。地震の影響で傾いた家屋や崩れた壁、つぶれた車などが、震災直後そのままの形で残っていた。
目的の請戸小学校の手前、請戸橋で降車。
そこからフクイチの白い鉄塔が肉眼で見える。この辺りは振興住宅地だったそうで、震災当時は新しい家がたくさん建っていたそうだが、現在は跡形もない。視界を遮るものがないので海まで見渡せた。
請戸小学校に到着。請戸小学校は生徒の機転と先生たちの迅速な判断で、先生・生徒約百名全員が津波の被害をのがれた。しかし、直後に出た避難命令でバラバラになったまま。校舎の時計はすべて15時39分で止まっていた。体育館は津波のせいで大きく床がえぐれており、ステージには「卒業証書授与式」の横断幕が掲げられていた。卒業式は迎えることができなかった。
校内は津波の影響であちこち壊れており、教室からみえるグラウンドにはがれきの入った黒いゴミ袋が山のようにつまれていた。教室の黒板には復興を願うメッセージや、請戸小学校に対する思いなどがところ狭しが書かれていた。
浪江駅周辺――福島民報新聞店
浪江駅に移動。
駅前の新聞店には3月12日付新聞が配達されないまま山積みになっていた。いまだ帰ることのできない浪江町を象徴しているよう。
新聞店周辺の側溝で線量をはかってみると1・67μSv/hと非常に高い。ガイドの方々も「あまり長居したくない」とおっしゃっていた。
浪江町役場~鈴木安蔵の生家
ガイドの志賀さんの計らいで浪江町役場で役場の方とお話できることになった。
《役場の方のお話》
役場機能も仮設事務所や二本松役場などを転々としてきた。2013年4月から今の役場に戻ってきた。住民も親戚の家、避難所、仮設住宅などを転々としながら避難している。
現在、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域などに分かれているが、もともと便宜上立ち入りなどの制限を緩和するためにした区域割り。あとになって、東電が賠償金額の差をつける区域として使っていることに疑問を感じている。
この状況を風化させたくない。みなさんに発信してほしい。
最後にガイドの志賀さんが9条の会の運動もされているということで「日本国憲法の父」、映画「日本の青空」のモデルになった鈴木安蔵の生家に案内してくださった。
憲法誕生へ思いはせるとともに、人影のない家に寂しさを感じた。
「ゴーストタウン」と化した浪江町内。
三年前の3月11日から時間が止まってしまったかのようだった。住民も避難生活を強いられている。
「東電バカヤロー」――黒板のスミに遠慮がちに書かれたメッセージが町民の本音なのではないだろうか。