【06.09.05】瀬見井 久さん[愛知県犬山市教育長]

犬山市の教育は教育基本法を生かして教育の目標は「人格の完成をめざす」

いま、全国から注目されている《犬山の教育》を知るために犬山市役所を訪ねました。市教育長の瀬見井久さんに教育への熱い思いを語っていただきました。

自ら学ぶ力を

 
物事を学ぶということは誰かに教えてもらうということではありません。元来、人間は自ら学ぶ力が原点にあるのです。

学校制度は、たかだか百年の歴史です。明治になってからの制度でしょう。以前の教育はどうだったのか。職人の世界でいえば、弟子は親方のやっていることを見て、自分の技術を身につけます。職人の世界は自ら学ぶ世界です。動物の世界でもそうでしょ。吉田松陰の「松下村塾」は教え込むのではなく、相手の特技をほめることだったのです。これが松陰の教育方針でした。ひと言で言えば、自ら学ぶ気をおこさせることです。教育制度ができる前は、すべて自ら学ぶ世界でした。

教育の目標は人格の完成に

教育基本法の精神の一番重要なところは、教育の目標は、人格の完成だということです。非常に崇高な精神に満ちています。

それまでの教育は、軍国主義の国家目標によって、軍国少年・少女をつくることが教育の目標だったわけでしょ。 それにたいして、新しい戦後の教育基本法は、国家目的にそった子どもを育てるのではなくて、子どもの人格、すなわち、みずから主体的に考え行動する子どもを育てることが教育の基本目標であるとおいたわけです。これは、戦前の教育の状況から見たときに、非常にきわだって重要な意味づけをもっております。

子どもたちが主体的に自ら学ぶ力を育むよう、教育に非常に期待をしています。 教育基本法の精神というのは今でも十分機能しています。子どもの人格の完成を教育の目標にしているのは非常に素晴らしいことです。
教育制度というのは多分に国家の考え方とか財界の考え方、こういう子ども像を前提にしようとか、国家目標に添った形でということが必ずいろんなところででてきますよ。昭和でいえば「富国強兵」にそう子どもを育てることが義務教育のポイントになってきます。そうすると自ら学ぶ力ではいけないわけです。戦後は、経済大国になり、今度は優秀な企業戦士を育てるということが教育の目標になりました。国家目標だとか経済界の要請する「子ども像」が定着していくわけです。 子どもの人格と国家の考える「子ども像」との軋轢です。必ず生じますよ。そこで、自ら学ぶ力とは、教育とは何だったかともう一度振り返った教育議論をきちんとしないといけません。その教育議論がない状態でいたずらに政治なり財界なりの要求する「子ども像」を前提にした改正の問題がでてくるとするとこれは非常に危険です。

市町村教育委員会はどんなことでも出来る

教育とは教え込むことではなく、育むことです。そして義務教育制度とは、すべての子どもに平等にきちんとした授業を提供することです。「できる子はできる、できない子はできない」ではだめです。これは、義務教育制度の原則です。 犬山で行っていることは、原則をふまえ、自ら学ぶ力を学力観の最重点にしています。少人数学級です。習熟度別はいっさいやっていません。当たり前のことで、何も奇異なことをやっているわけではありません。

戦後、教育基本法が改正され、学校教育に関する諸法規も制定されています。これは、市町村教育委員会の主体性を尊重し現場主義に満ちた法律です。教育課程をつくる権限、授業づくりの権限、教員研修、教科書採用の権限すべて市町村教育委員会がもっています。最たるものは人事ですが、県教委に人事権があるように思われていますが、基本的には服務監督権は市町村にあります。これは非常に重要なことです。金は国と県から出ており、任命権者は県です。しかし、服務監督権者である市町村教育委員会の了解がないと勝手に任命しないとなっています。 昨年、一昨年の例では、校長から全職員ほぼ犬山市の原案通りです。そうでなければ、地方で地方の考える教育は出来ません。これは、ものすごく民主的で、非常に理想的な教育がおこなわれるべき筋合いの法体系です。

ところが文部省はおかしなことをやりだしたのです。ひとつは、学習指導要領です。教える内容を決め、市町村教育長や都道府県教育長は文部省が了解しないといけないと口を出してきました。さらに学級編成、少人数学級は文部省の了解がないとだめだとか、いろんな条件を押し付けてきて、がんじがらめにしてきたわけです。

5~6年前になって初めて、文科省が「規制緩和」してきました。やってもよろしいという方向に。それは「規制緩和」ではなく本来の姿に戻しただけなのです。

市町村教育委員会でやろうと思えばどんなことでもできるはずですよ。犬山はそれを利用しているだけです。誰からも文句を言われる筋合いはありません。文科省からも文句を言われません。しかし、まあ、文句を言ってくるけどね。(笑)法体系に基づいて素直にそれを実行しているだけです。

少人数学級は、いま当たり前になってきているでしょ。犬山市がやろうとしたときは、文科省は大反対。今は当たりまえ、全国一斉の学力テストもそうだと思います。今は犬山だけが反対、これ3年ぐらいしたらね、はっきりしますよ。

人々の生きざまが感じられる出会い

僕は、生きざま、死ぬざまの話はすごく関心あります。親鸞聖人の書いた『教行信証』を忠実に再現したものが最近刊行され、取り寄せました。親鸞は死に際まで自分の経典『教行信証』の原本に朱をいれています。私は浄土があることを信じないのですが、こういうことには大変興味あります。旅にも行きますが、そこで、人々の生きざまが感じられる出会いが好きですね。

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