長年やりたかった「泰山木の木の下で」
今年5月11日から15日まで、愛知県芸術劇場で戯曲「泰山木の木の下で」(作 小山祐士、演出 小田靖幸)の公演を行いました。これは私が、長年やりたかったものです。
全公演完売となり、大変うれしく思いました。 あらすじは、ご存知の方も多いと思いますが、この作品が書かれたのは、1962年です。
戦争、原爆で子どもたちを亡くし、夫も亡くし、戦後、頼まれれば人助けのつもりで、堕胎をしているおばあさん、自身も被爆してる神部ハナが主人公です。
むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく
「泰山木の木の下で」は、劇団民芸の北林谷栄さんの代表作です。北林さんが初演されたときに観ましたが、とても感動しました。
「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく おもしろいことをまじめに」との井上ひさしさんの有名な言葉があるでしょう。
この言葉のように「泰山木の木の下で」は、法律のことや憲法のこと、難しいことを神部ハナさんの言葉で日常の会話にしているでしょう。
それが私はとっても好きだったのです。
難しいことをみんなにわかりやすく話をすることは、とても大事ですね。 私は、19歳から老婆役をやっていますから、北林さんのお芝居を初めて観たときに神部ハナの役をやれるのは名古屋でやるとしたら、私しかいない(笑い)と単純に思いました。
若い役は、自分が体験してきたことを思いだせばいいでしょう。
老婆役は自分が行く道を想像して演じないといけない、初めのころは、老婆役に抵抗もありましたね。
でも、私にとって老け役から入ったことは非常に幸せだった、演技の勉強になったと思います。
憲法の「け」の字も考えたことのない人にも見てほしい
木村光一先生に演出をお願いしに、3年間足を運びました。
先生のスケジュールはいっぱいでその隙間もなく断念せざるを得ませんでした。
その時に、木村光一先生が「特殊な役ができる人は東京に山ほどいるが、あんたの強みは普通の人ができること。」と言われました。
私は、勝手にほめ言葉だと思っているのですが(笑い)。
私は、この作品を僻地へもって行きたいということが夢でした。芝居も見たことがないというようなところへ行って、憲法のケの字も考えたことのない、法律が何か、というような人に非常にわかりやすい、いい話だとおもったからです。
家に帰ってからでもじわっと何かを感じる、生の芝居を見たことがない人がたくさんいると思うのです。そういう人たちに観てもらいたいとずっと思っていました。
「泰山木の木の下で」のせりふはとても多く、私ももう、年齢的にも待っていられないということで、自分の劇団だけで今年5月に公演を行いました。
「法律のなかでもいっちくらいの高い憲法」
主人公のハナさんは学力も何にもない普通のお婆さんです。
でも、体で感じ取ったものを人生哲学として本質にせまる言葉が口から出るお婆さんです。それに私は惚れていました。
「また法律ですかいの。法律じゃいうて、変えようと思や、どがいにでも変えられる仕組みにできとるんでがんすぞ。あがいな生き地獄の、火の玉の地獄のピカを受けたいうのに、性こりものう、また戦争で一儲けしとうなった人たちが、戦争のできるような仕組みの法律に変えようとして、法律のなかでも、いっちくらいの高い憲法という法律を、邪魔者扱いにしんさとっるいうことを、こがいな年寄りのあたしじゃいうて、ちゃんと聴いとりますぞ。」というせりふがあります。とても大事なせりふです。
「法律のなかでもいっちくらいの高い憲法・・・」というところ大好きですが、立派な難しい言葉ではなく、自分が長年生きてきた間に身につけたというか、感じ取ったことばです。
井上ひさしさんと同じことを作者の小山祐士さんは自分に言い聞かせてこれを書いたそうです。とっても感動しましたね。神部ハナさんのいった言葉を聴いて「はあ 上手に私の気持ちを言ってくれた」と思う方も多いと思うのです。
「泰山木の木の下で」を又やってほしいという方もありますが、ものごとには退き時がありますから(笑い)「まだ、できるじゃない」と思っていただけたら幸せだと思いますね。
「原発」の「平和利用」の言葉にだまされていたのでは
私たちは原発の「平和利用」という言葉にずいぶんだまされていたと思います。
どうしたらいいかわかりませんが、原発は全面的に無くなって、暮らせる方向を考えればいいと思いますね。昔はなかったのですからね。なにも、街中ピカピカと光らせることはなくていいと思いますし、生活のスタイルを変えていけばできると思います。
私は原発反対です。東日本大震災が起きて、このことがはっきりわかりましたね。
26人のアピール人の一人として「原発に依存しない新しい日本の創造に向けて」アピールの賛同者になりました。
私が俳優になったきっかけは
私が俳優になったのは、ロシア文学者の熊沢復六(またろく)先生にほれ込まれたからです。(笑)
復六先生のお兄さんは熊沢五六徳川美術館元館長です。熊沢復六先生が知多半島(常滑)に疎開、NHKの講師もされており、「こんな有名な人がおられれば」ということで学校に指導にきてもらいチェーホフの「桜の園」をやることになったのです。
私は、演劇部でもなく、学芸会にも出たことがなかったので、通行人で参加したのです。なぜか、毎日「役を変わりなさい」と言われているうちにだんだんむつかしい役になって、養女のワーリア役になってしまったのです。 学校の先生が私をNHK放送劇団に入れようと行き帰りは、お迎えということで、入団することになりました。
最初は「かわらこじき」になるのではと父は大変心配したようでした。でも、やりだしたら、毎日、いろんな人の人生がやれるので、面白くって面白くってたまりませんでした。
復六先生が亡くなられてから聞いたのですが、私を舞台女優にしたかったようです。
発端は、自分で決めたわけではありませんが、61年たっても女優人生をまだ、歩んでいますね。(笑い)
二度と戦争はだめ!
「二度と戦争はだめ!」の想いであいち女性九条の会に入りました。
そうしたら青木みかさん、野間美喜子さんと私の3人が共同代表になってしまいました。
あるお年寄りの方が、「私が戦争に反対してきた証としてあいち女性9条の会に入る」というようなことをいわれ、この言葉にとても影響されました。単純なんですね。(笑い)
私の夢は、親子でひとつぐらい作品をやりたかったのですが、だめでしたね。(笑い)