「核兵器のない世界」に向かう新しい時代
大村 義則 さん
1958年生まれ。学生時代、生協の専従時代から反核平和運動に参加。愛知県原水協代表理事、県原水爆被災者の会副理事長、日本被団協被爆二世委員会委員。
1月22日条約発効
運動を始めた当初、こんなに早く核兵器禁止条約が国際条約となる時代が訪れるとは考えられませんでした。驚きと嬉しさです。2005年にニューヨークのNPT再検討会議に初めて参加して以来、その後も核軍縮をめぐる国際的な会議に参加し、各国の外交官と直接お話をする機会が少なからずありました。メキシコの外交官が「この国連の議場の中から変化は生まれない。変化とは運動をして社会の中からつくられるものだ」と言われたことがありました。その当時は、市民運動に寄せられるこのような期待の声は「社交辞令ではないか」と感じた事もありましたが、この10数年、実際に市民運動と各国政府の共同が世界を動かして核兵器禁止条約発効に至ったのだと、今、実感をもってとらえる事ができるようになりました。
人間の安全保障
世界では、私たちが思っているほど被爆の実態、被爆者は知られていない!これまで「核兵器による非人道性」をさんざん訴えてきたつもりでしたが、世界ではまだまだ被爆の実態、被爆者は知られていないことに衝撃をうけました。
これまでは、核軍縮の議論は、もっぱら国家安全保障論から軍事力によってどう均衡を保つのかというものでした。この議論には生きて暮らしている人間は全く無視されています。「人間の安全保障」という議論が10年ぐらい前から始まり、そこに焦点をあてたことにより改めて被爆者の存在が大きな意義を持つようになりました。
大きくかわりつつある世界
核兵器禁止条約の批准国は52カ国(1・22時点)。署名国はすでに86カ国(同時点)にのぼっています。昨年12月の第75回国連総会は、国連加盟国の3分の2を上回る、過去最多の130カ国が賛成して核兵器禁止条約の署名・批准をよびかける決議を採択(反対42、棄権14)しました。批准国の広がりを地域別にみると、かつて「アメリカの裏庭」と言われた中南米の国々が一番多いのです。アジアで批准しているのはASEAN(東南アジア諸国連合)の国々です。世界をみればこの運動の主人公はどこかというと小さな国々で、世界政治はいまや大国中心主義から大きく変わりつつあると実感しています。
最も遅れた国 日本
日本政府の態度は、核保有国との橋わたしを被爆国日本がやりますという「橋渡し論」です。しかし、これは世界では通用しなくなっています。国連総会には、日本政府が主導して「核兵器のない世界」に向けた決議案を出していますが、ここ数年決議案の共同提案国は激減、2016年には109か国あった共同提案国も、ついに昨年、26か国へと激減しました。日本はアメリカの核の傘に依存しており「核兵器廃絶」を本気で考えていないと見透かされているからです。
核兵器禁止条約には「核兵器の使用、威嚇をいかなる形でも援助、奨励、勧誘することの禁止」という条文があります。いわゆる「核の傘」の禁止です。日本政府は、これがあるから禁止条約に入れないといっています。
2016年に当時のオバマ大統領は核先制攻撃不使用宣言を検討したと言われています。しかし、当時の安倍首相が北朝鮮などに対する核抑止力が低下すると反対した影響もあって、見送られました。
しかし、世界はそういう動きから変わりつつあります。アメリカと軍事同盟を結んでいるNATO加盟の国々にも「核兵器による安全保障」から「核兵器のない世界による安全保障」へと変化がひろがっています。昨年9月、NATO加盟国や日本と韓国の元首相、元外相・防衛相ら56氏が連名でそれぞれの国の政府に、核兵器禁止条約への参加を訴える公開書簡を発表しました。
いまや世界の心ある人たちはその方向に動きつつあります。日本は唯一の戦争被爆国でありながら、最も遅れた国になっています。
日本政府の署名・批准を求める署名がスタート
原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が提唱して、被爆者や各界各分野の著名人ら137人が呼びかけた「唯一の戦争被爆国 日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」が、昨年10月29日にスタートしました。ノーベル物理学賞の益川敏英さん、元外務大臣の田中真紀子さん、ジャパネットたかたの高田明さん、俳優の石田純一さんなどが賛同されています。
どんなに遅くとも総選挙は10月までには必ずあります。「核兵器禁止条約に賛成する政府をつくりましょう」この運動が求められています。
核兵器禁止条約に調印する政府をつくり、そして条約を批准させる国会に変えていくワクワクとした運動です。唯一の被爆国の日本政府が変わり、核兵器廃絶をめざせば、世界の流れは大きく変わると思います。愛知でも全国に呼応してこの署名をすすめる会をつくりひろげていこうと考えています。
被爆二世として
被爆から50年の1995年に自身が被爆二世であると知りました。私の父はずっと隠していました。九州の部隊に徴兵され長崎市内の爆心地支援で入市被爆をしました。それまで誰にも言いませんでした。被ばく者の平均年齢は83歳です。被爆の継承をと、愛友会の中に「被爆二世部会」をつくりました。「核兵器のない世界」に向かう新しい時代、歴史をつくるやりがいのある仕事です。