【20.03.10】パレスチナ地域研究・金城美幸

故郷を思う人びと―済州島からパレスチナへ

 最近、祖父たちの墓がリノベーションされた。韓国の済州島にある父方祖先の墓だ。着工時、祖先の霊を祭り、土葬の遺体を再埋葬した。日本が朝鮮半島を支配していた40年代に渡日し、1982年に亡くなるまで日本に暮らした祖父。死後は故郷の地に眠ることを望んだ。
 機会があれば故郷を訪れ、墓地を整え、子孫に村の歴史を語る。祖父の話ではない。1948年に故郷を追われたパレスチナ難民たちである。「ここが私たちの家、学校、モスク…」指さす先に痕跡がある。彼らが故郷を失ったのは72年前、ユダヤ人国家イスラエルが建国された時。欧州の負の遺産である反ユダヤ主義は、ナチス政権下で頂点に達した後、パレスチナでのユダヤ人国家建設でもって「解決」された。パレスチナ人の故郷と引換えに。第三次中東戦争(67年)後もイスラエルは占領地を広げ、パレスチナ人の追い立てが続く。
 私の幼い頃に亡くなった祖父は、故郷にどんな思いを抱いていたのか。パレスチナ人の故郷への思いに触れるたび、考える。済州島では植民地解放後も苦難が続き、米軍が支える反共政策下で島民虐殺(48年4・3事件)が起きた。同胞が命を奪い合った島。どんな思いで「帰った」のか。
 夏、破壊されたパレスチナ人村の跡地では、主(あるじ)の帰りを待つがごとく、アーモンドの実が揺れる。今やイスラエル領となり帰還を禁じられた村。パレスチナ人はひっそり村を訪れ、土地の実りを噛みしめ、故郷とのつながりを密やかに取り戻す。
 故郷を失った難民は救いを待つばかりの無力な存在ではない。暴力を生き抜いてきたサバイバーであり、証言者だ。暴力の狭間に息づく彼らの経験にどうすれば近づけるのか。模索は続く。

*金城さんは2019年9月号のインタビューに登場。「歴史を学び直す『未来に繰り返さない』記憶の形成を」と語っていただきました。

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