宗教・文化・政治に真正面から取り組んでこなかった日本社会
旧統一教会の宗教法人解散(法人格取消)については宗教学者の島薗進も賛同人になっているが、私もこれまでの活動や現対応の酷さに対し宗教的特権を外すべきと思う。
思い出すのは1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件でありそれは私の臨床社会学の出発点であった。
しかしあの時日本の宗教学からオウム真理教研究はむしろパージされ、それまで東大宗教学等を中心に盛んに行われていたフィールドワークも自粛された(また事件を受けて宗教界は国家弾圧よりは業界の自主管理を望んで問題に向き合おうとしたはずだったがパフォーマンスに過ぎなかったのか。この時、統一教会のことは念頭になかったのだろうか)。
私はこの時、オウム事件の重さを受け止めてカルト研究やスピリチュアル研究(インタビュー調査)を始めた。南山大学宗教研究所(渡辺学企画)が行ったシンポ(桜井義秀や山口広も参加。『宗教と社会問題の<あいだ>ーカルト問題を考える』にまとめられる)にも参加した。
桜井や鈴木エイトらの粘り強い研究には頭が下がるが、私自身も社会意識研究・イデオロギー研究として一貫して当時の問題意識を持ち合わせ続けているつもりである。つまり排除の反復を続ける社会に対して、これに向き合う研究者たちもいるのである。
日本社会が常に宗教・文化・政治に真正面から取り組んでこなかったことをその中で実感するのだが、「表現の不自由展・その後」への反応(社会からの排除)も全く同じ文脈の中にある。(「『あいちトリエンナーレ2019』におけるコンプライアンス」『現代思想』2019・9等で執筆)。
*樫村愛子さんは、2022年3月号のインタビューに登場し、「個人が分断されている社会の中でどう人とつながるのか」と語っていただきました。