【12.02.10】宮城沿岸部を行く 革新・碧南の会ニュースより投稿

  宮城沿岸部を行く              革新・碧南の会代表世話人 S・M
              
 12月上旬、仙台へ行った。石巻まで行こうと思ったが、鉄道が不通とのことで車で北上することにした。行けるところまで行って、戻ろうと思って……

◎空港で
 仙台空港に押し寄せる津波の映像は見ていたが、その日から9か月ということもあり空港の機能は回復し、アクセスする鉄道も運行していた。駅には当時を映す写真もあり、駅からすぐのトンネルは水没し、瓦礫に埋っている写真もある。駅から東は津波にやられていたが、レンタカー会社はすでに営業していた。仙台駅からの帰りの電車からは、駅近くの広場に仮設住宅のコンテナハウスが並ぶ風景もあった。

◎松島は
 翌日車で沿岸部を北上する。市街地をぬけ塩釜へ。右手に海を見ながらであるが、壊れた家は左手にも見られる。車の通行は結構多い。途中松島湾を見る高台に登り、海を見る。観光客もいたが、普段はどれくらいの人が出ているのだろうか。湾内の島々により、津波の勢いは殺がれ、陸地の被害は多くなかったようで、旅館や商店は営業していた。島の被害はどうであったのだろうか。野蒜の地名を見る。紙上で見た覚えがある。

◎石巻へ
 石巻までの道路はいくらか内陸寄りで、右手には平地が海岸まで続く。石巻への入口というような位置に、航空自衛隊松島基地がある。瓦礫が高く積み上げられており、飛行機は全て使いものにならないとのニュースを読んだ覚えがある。海岸へ向く道路はダンプカーへが多くなり、道路の右手海岸寄りは、津波により一掃されたかのように建物はない。
 左手は無人の家が点在する。堤防沿いには、これまた瓦礫が積み上げられている。港に向うと、海寄りには大きな工場群があり、その内のいくつかは既に操業していた。魚市場も再建され、それ特有の臭いをただよわせていた。旧北上川にかかる橋を渡る時、両側を見ればきれいに建物は無くなっていた。石ノ森漫画館はどうなったのだろうか。

◎女川へ
 牡鹿半島の付け根の狭い道路をぬけると、女川湾に出る。ここが町の中心地だろうか。見事というほど建物はない。ただ道路のみが市街を区画する。丘の上の学校か役場かの建物は健在のようである。半島を一時間ほど走ったところに、東北電力女川原発がある。原発はその日以来停止しており、せめてと思ったPRセンターも閉館されていた。その途中には多くの小さな入り江があり、小集落があるリアス式海岸そのものであったが、かけ上がった津波により、小集落は跡形なくさらわれていた。海寄りは全てそのような風景であり、山寄りの狭い所に仮設のコンテナハウスが建てられていた。寒さを前にして防寒対策の工事はなされていた。石巻の平地の沿岸部とリアス式入江の女川は、同じ津波被害地であるが風景は異なる。

◎再度石巻へ
 女川を北限にして帰途につく。帰途石巻の内陸の市街地に入る。復興の石巻モデル(岩波新書)として紹介されてもいる。津波は市街地深く押し寄せたというが、ボランティア活動の拠点となった大学も近くにあるが、車で通過するだけでは活動の現場はわからない。しかし、活動は今も続いているのだろう。

◎仙石海岸へ
 仙台に戻り仙石港へ。フェリーも接岸し、当面の港の機能は回復しているようだが、岸壁や港の建物は壊れたままの所も多い。しかし釣り人もおり、近くのアウトレットモールには多くの車と人が。しかし更に南の沿岸部は、家屋・田畑とも津波被害を受けた地域である。人影はなく、ダンプカーが土煙りをまきあげる通りから更に海岸に出る途中に、壊れたガソリンスタンドが曲った鉄骨をさらしている。更に進むと、学校の建物が残っている。グランドにはオートバイが整然と置かれていた。回収されたが引き取り手がないものであろう。校門は閉じられており、花がそえられていた。海岸に出ると海水浴場であったであろう施設は壊れ、松林は傾いていた。広場には布が巻かれた柱が建っていた。家に帰り知ったのだが、12月11日、ここで慰霊の集まりが催されたようである。柱は慰霊碑であった。仙台、石巻、女川、どの海も皆波静かであった。

◎多くの被災地が
 仙石から南、そして福島。北は岩手県などの大震災被災地。そして直後の長野県栄村も震災被災地である。更に紀伊半島の豪雨による被災地。厳しい寒さの中、どの被災地も大変であろう。人はその中、我慢の生活を続けている。

東日本大震災被災者(2月3日現在、警視庁発表)
死者15846人
行方不明3320人

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