【09.01.10】新春インタビュー 真宗大谷派寳宝寺住職 木俣 和博さん

憲法九条は、人類が求めて発見した「ねがい」

 
若いときには演劇人をめざしたとおっしゃる真宗大谷派寳泉寺住職の木全さん。五〇〇年の歴史を持つ寳泉寺におじゃまし、お話しを伺いました。

木全 和博さん
1951年10月豊田市生まれ。真宗大谷派寳泉寺住職、真宗大谷派宗議会議員。あいち九条の会世話人、あいち宗教者九条の会世話人代表

「信教の自由」に無関心であってはならない

寳泉(ほうせん)寺 
私は、憲法二〇条「信教の自由」について宗教者九条の会でお話しさせていただいたことがきっかけでこの運動に係わるようになりました。「憲法二〇条」基本的人権の問題です。
 宮澤俊雄さんという方の言葉ですが、「宗教に無関心であるということは、いっこうに差し支えない。しかし、信教の自由に対して無関心ということは、民主主義の基本的人権を国民自らが失っていくことになる」と。そういう責任を我々はもっていると思います。

二〇〇八年二月「真宗大谷派九条の会」発足

 寳泉寺(ほうせん)寺本堂
真宗大谷派は、かつて戦争に加担してきたという深い懺悔と謝罪の意味を込めて一九九五年、宗議会で「不戦決議」を全会一致で可決しました。
 二〇〇八年二月九日、「真宗大谷派九条の会」を発足しましたが、前年の二月九日は「親鸞流罪八〇〇年のつどい」が行われた日です。親鸞については、ご存じだと思いますが、破戒僧であり、独自の寺院をもつことはせず非常に自由な精神をもって生き、「世の中安穏なれ、仏法広まれ」を説きました。教団のなかでもリーダーシップを取っておられる教学者が、中心で発足したことに大きな意味がありますし、多くの人々が全国から「不戦の決議」の願いをもって集まってこられました。

宗教の存在する理由

私たちの宗派には、宗憲というものがあります。その中に、宗門が果たすべき役割として「同朋社会の顕現」が謳われています。「同朋社会の顕現」とは、簡単に言いますと争いもなく皆、平等に生きられる世界をつくりだす、社会で起こってくるさまざまな問題に、教団は無関心であってはならないということです。
 内面の問題として、信じる、信じないという問題だけでとらえれば、宗教が世に存在する理由はありません。時代が宗教の存在を問い、宗教はその時代の問題を指摘していくことがないと存在する理由がないのです。

怖いのは慣れ 

幸か不幸か総理大臣がころころ変わっているでしょう。
 おそらく、憲法の問題もなかなか政治日程に上がってこないと思います。
 田母神発言で自衛隊や政治家で「よく言った」という人が結構堂々と発言しています。怖いのは、慣れです。そういう言葉に慣れてくると既成概念が出来上がり、あたかも事実のように見えてきてしまう。
 いつの場合もそうですが、体制が企てることは気がついたら遅かった、そういうことにならないように緊張感をもたなければいけないと思います。
 九条守れの声が増えれば増えるほど水面下での危険な流れも強まるということを肝に銘じて、それを許さない緊張感が大切です。

憲法は国の暴走の歯止めの役割

憲法は国が暴走することを歯止めする役割をもっています。憲法は、「政治を行う」ためにあるのではなく、政治は、「憲法を守る」ためにあるのです。
 政治が精神的領域にいっさい介入してはならない、これが信教の自由だと思います。非常に不可侵性があるのですが、「政治のために憲法がある」という解釈を堂々となさる政治家もおられるわけです。
 私は、政治家にまかせるのではなく、一国民の努力として九条を守るべき運動をおおいにすすめていくことだと思うのです。「九条の会」のように草の根の運動をすすめることは、こうしたことを確かめていく場であると思います。徐々に憲法改正反対の人たちが増えてきたのは、全国いたるところでさまざまな「九条の会」がひろがり、国民の認識が深まってきた証しではないかと思います。
 「憲法」が意識されるようになってきたのは、ある意味、九条改憲の問題が出てきたおかげとも言えると思います。憲法の精神が命じていることを政府に守らせる不断の努力を私たちはいっそうすすめましょうと、この機会に訴えていくべきだと思います。 

人間の基本にかえって

自国の利益が優先される中で、人を傷つけても自国が良ければという発想にしかなりません。
 経済にしても非常にあやうい状況で不安定なところで全てが成り立っています。 世界中で出口が見えない状況です。そういう時こそ、もう一度人間の基本に帰ることが非常に大事だと思います。
 自己を確立することが大切ではないでしょうか。自己の確立がないとまわりに振り回されてしまいます。そして、知らないうちに加担していく、利用されていく、企てられたことが徐々に毛穴から入っていって私の質になってしまうということもありますので、よほど、ことある毎に感じたことは発言していく事が大事ではないでしょか。
 人間が得た知恵でおそらく一番おろかな知恵は、人と比較することです。人と比較し、「あの人よりはまだまし」と安心する。そうするしか自分の存在を確かめられない不確定な時代です。「私は今ここに実存している」ことを忘れてはいけません。
 そのためには、本物を見ることです。そういう生きざまで生きている人と出会う。亡くなられた筑紫哲也さんは、沖縄の地で自分の立つべきところがはっきりしたといっていましたが、いろいろなことにかかわって、そのかかわりの中で自己の内面を見ていくことが非常に大事だと思います。
 九条はたまたま発見した精神です。あの悲惨な戦争を体験し、人類がずっと求めてやっと発見した精神が「憲法九条」に代表される、知恵というより「ねがい」があのような形になってでてきたと思います。
 これを一部の人間の考えで変えようというようなことは許されるはずがありません。
 「憲法九条」は、人間の知恵を超えた「ねがい」から発見された精神ですから。

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