いのちのある限り 被爆者運動を 残るガラスの傷、あの日の記憶 

 

水野 秋恵(ときえ)さん

1940年広島生まれ。被爆者。2024年まで愛友会事務局長。戦争の体験を語る語り部活動は今も続けている。

戦後80年、各地で核兵器廃絶、戦争させない運動や企画が行われています。80年前、4歳10か月で被爆した春日井に住む水野秋恵さん。今も各地で体験を語られています。被爆者として、生きている限り声をあげて運動します。とインタビューに応えていただきました。

爆心地から
  1、2キロで被爆

1945年8月6日、爆心地から1、2キロの広島市水主(かこ)町(現・同市中区)で被爆しました。私は当時4歳10か月でした。
 私の父親は海軍の軍人で潜水艦乗員でしたから船に乗ってしまうと2・3ヶ月帰りませんでした。そうすると母は私たちを連れて、祖母の実家の水主町に行くのです。二つ下の弟と近所の家にお菓子をもらいに行ったときです。
 あの日はよく晴れた暑い日でした。8時15分に原爆が投下されました。真っ暗になってパーッと光が入ってきて、気付いた時は、がれきの下敷きになっていました。がれきの下から外を見ると、頭から真っ赤な血が噴き出ている小さな弟の姿と兵隊の姿を見た記憶はあります。私は、飛び散ったガラスが顔や腕に刺さり、血まみれになって、30代後半で手術をして取り除くまで、左ほおにはガラスが埋まっていました。
 2人とも真っ先にがれきの下から兵隊さんによって助け出されました。着物を裂いて、止血をしてくれました。いまでも、右腕には、その傷跡があります。
もし、止血が上手でなかったら、切り落とさなきゃいけなかったと後に祖母が言いました。
 家族で「なにかあったら集合しよう」と話していたお寺に行くことにしました。どうやって行ったか覚えがありませんが、母と祖母が弟たちをおんぶして逃げました。
 当時は、川の近くが避難所になっていました。いかだに乗って逃げる時に、学校の先生がリュックの中にあった反物を裂き、おんぶひもを作ってくれました。
 しばらくはいかだの上に乗っていました。誰かがいかだに乗せてくれとすがるたびに転がり落ちながらも、なんとかお寺に行くことができました。

被爆者運動は
   高校生のときから

被爆で、顔や4か所ぐらい、目、唇、まぶたの上、顎の下に傷がありました。
 私が幼いころ、どうしたのって、友だちが聞くでしょ。広島で被爆したということを隠そうとは全く思いませんでした。
 私は、誰もが経験したわけではないので、知らせていく必要があると思います。命のある限り声を上げていきます。きっかけは、私が高校生の時、私の被爆者運動の中では、父親みたいな存在でいろいろ教えてくれた方がいました。
 当時、「広島の被爆者、長崎の被爆者集まってください」という新聞が掲載さました。その中心になっていた方が自民党の市会議員でした。私にできることはないかと電話をしましたら、「あなたは学業に専念してください」と言われたんです。だけどその時に、その運動の事務局をしていた木戸大さんが、若い子がわざわざ電話をかけてくるというのは、見込みがあると思ってくれたのか、育ててやろうと思ってくれたんじゃないですか。声をかけてくれて、一緒に連れて歩いて勉強させてくれたのです。

ただただ、うれしい

ニューヨークの国際会議でも核廃絶を訴えました。
全国にいる被爆者たちの声が世界に届いたと思うと、ただただ、うれしいです
 今回の受賞については、それだけ努力をしてきているので、遅かったという気持ちもあります。私はニューヨークに5回ぐらい、インドにも5回ぐらい行きましたが、被爆者のかたで、ヨーロッパに行った方もいるでしょうし、世界各地いろんなところに行って訴えたのです。みんながそれぞれ努力をしたわけです。
 被爆者の方々が、自分たちの体や命を賭けて、命がけでたたかってこられたことが大変大きいと思います。
 ただ、私が愛友会の事務局長を長くやってきたこともあるんでしょうけれども、当然嬉しいのですが、半分は「当然だよ」と思う気持ちもありますしね。
 みんなや自身の励みになってよかったというのもあります。それはいいプレゼントだったと思います。

先輩たちが永遠として運動を続けてきたから

愛友会の事務局長は辞めましたが、各地に出かけて行って被爆体験をお話ししています。
 津島市は、1982年に「非戦・核兵器廃絶都市宣言」を行っていて、毎年、中学生が広島に行きます。「被爆者体験を語る」ということで、お話ししています。せんだてもお話してきました。帰ってきてからもお話ししながら、中学生の意見を聞いたりする勉強の場があります。
 ノーベル平和賞をもらった時に私がインタビューに応えて、「先輩たちが永遠として運動を続けてきたからです。」と言ったことがあります。
 被爆者のこどもさんが私の記事を読んで「嬉しい。会いたい。」と会いに来てくれました。亡くなった父親のことを思い出されたのではないでしょうか。お父さんが一生懸命やってる時のことを幼いながらもみてこられたんでしょうね。地下鉄構内で少し話せればいいとおっしゃっていましたが、事務所もみたい(笑)と事務所まで行きました。お父さんが出入りしていたところだからね。じゃあ行きましょうって。嬉しかったです。そういう出会いって嬉しいですね。
 自分の父親が被爆者運動で、お母さんも一緒に出かけてしまう、留守番をしてたのでしょうね。そうやって一生懸命やっていたということを見てたと思うの。だから嬉しいんじゃない。私もうれしかったですね。
 ノーベル平和賞を受賞した一方で、ウクライナや、パレスチナなど、核兵器廃絶に背を向ける流れもあります。
 戦後80年、核廃絶運動が国民運動になって、世界に波及していくよう、私も語り続けていきますし、担い手を増やしていきたいです。 唯一の戦争被爆国として、被爆者を二度と作らないよう核廃絶に向けてこれからも訴え続けたいと思います。


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